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昨日は茅ヶ崎市にある介護老人保健施設、ケアーパーク茅ケ崎へインディアンフルートの演奏訪問をしました。
以前からショップにお客様としていらっしゃっていた方が当施設にお勤めで、入所していらっしゃるご老人方に是非フルートを聴かせてあげて欲しい、とのご要望にお応えしたのでした。

何時ものようにスー族に伝わるラブソングや他の伝統歌を20曲ぐらい演奏。気持ちよくなって寝入ってしまう方もいらっしゃったようですが(笑)、45分間、心地よい波動を楽しんで頂けたようでした。
特に最前列にいらっしゃったおばあちゃんが他の誰より喜んで下さり、最後は有難うと手を合わせて下さって感無量でした。
category: ネイティブアメリカン文化
この夏、モンタナにて親友のロイ・ビッグクレーンと話していた時、去る3月、アグネス・オシュニ・ケンミルが「ハッピーハンティング・グランド」へと旅立ったことを知らされた。インディアンの人達は霊界の事をhappy hunting ground と呼ぶ。獲物となる動物が沢山いる平和で豊かな土地、桃源郷の事だ。
彼女は鹿皮なめしの達人であり、その名前はモンタナはおろか他の州の居留地にも知れ渡っていた。またサリッシュ・スタイルのビーズワークも素晴らしい腕前で、彼女が作ったモカシンはヒラリー・クリントンに、グローブはモハメド・アリにも贈呈されたという。

アグネスと懇意になりだしたのは僕がサリッシュクーティニー・カレッジ在学中に彼女のクラス「ハイドタニング(皮なめし)」を受講してからだった。フラットヘッドを始めとする北部平原部族の伝統工法である鹿の脳みそを使ったなめし方を最初から最後までの工程を実践しながら学べるというもので、今、思い起こせば何とエキサイティングなクラスだったことだろう。
彼女は僕の事をとても好いてくれて、僕の事を「タクー」と呼んだ。僕の作るビーズワークをとても評価してくれて、新しい作品を作る度に彼女に見せてあげ、その喜んだ顔を見るのが大きな喜びだった。
彼女を有名にしていたのは、そのユーモアのセンスだった。そのセンスは抜群で、絶えず冗談を言っては周りを和ませ、彼女の近くにいるだけで、その明るいオーラに満たされた。笑いは彼女の人生でとても大きな意味合いを持っていたのだろう。それは光と影で、彼女の人生を知ると良く理解出来た。
彼女の死後、その過酷な人生を部族新聞であるチャクースタ・ニュースで初めて知ったのだ。93年間の彼女の人生は、その時代に生まれた他のアメリカインディアンと同様に、とても厳しいものだった。アメリカ政府による白人同化政策や居留地開放政策による白人文化との軋轢、消え行く精神的伝統文化と白人物質文明との狭間に揺さぶられた背景があるのは言うまでもない。
アグネスは7歳の時に父親を、12歳の時には母親を亡くし、最初の結婚後、間もなく夫を亡くしてしまう。数年後、再婚し、2人の子供を授かるが、結婚後6年にしてその夫、ジョー・マサイアスも建設現場事故で他界してしまったのだった。
僕が最後にアグネスに会ったのは2年前のアーリー・パウワウだった。僕は特別席として設えられたビップ席に座っていた彼女の後ろに居座ることにした。晩年の彼女は足が弱っていたので、何かと身の周りの助けが必要だったからだ。彼女の傍に座って少しでも助けになり、一緒に時間を過ごせたらと思ったのだ。僕はその時、既に彼女との今生の別れを覚悟していた。
僕はパウワウが終わったら数日後に彼女の家に遊びに行く約束を交わしていた。しかし、その約束は遂に叶わなかった。今生最後の試練が彼女に降りかかったのだった。実はパウワウが終わった次の日、彼女の息子の一人が交通事故で亡くなってしまったのだ。そうとは知らず、約束の日に彼女に電話をすると電話口には娘さんの一人が出てきて「ごめんなさい、ママは今は誰にも会える状態じゃないのよ。。」と言った。後ろでは微かに年老いたアグネスのすすり泣き声が聞こえていた。それが僕が聞いたアグネスの最後の声となった。

パウワウの最中に僕は彼女の写真を何枚か撮影した。多くのお年寄りがそうであるように彼女はレンズに向かって微笑むことを余り得意としなかった。何枚かの連写の中でとても良い笑顔を見せてくれたのが、このショットだ。何時の日か僕がハッピーハンティンググラウンドへ帰った時、アグネスはきっとこの笑顔で迎えてくれるに違いない。